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{ "id": "aozora-624", "title": "山月記", "author": "中島敦", "authorDied": "1942-12-04", "bodyCharacters": 5820, "cardUrl": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card624.html", "textUrl": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html", "baseBook": "李陵・山月記", "publisher": "新潮文庫、新潮社", "baseEdition": "1969(昭和44)年9月20日発行", "inputBy": "平松大樹", "proofreadBy": [ "林めぐみ" ], "created": "1998-11-12", "revised": "2010-11-02", "retrieved": "2026-10-29", "markedBody": " [[隴西|ろうさい]]の[[李徴|りちょう]]は博学[[才穎|さいえい]]、天宝の末年、若くして名を[[虎榜|こぼう]]に連ね、ついで[[江南尉|こうなんい]]に補せられたが、性、[[狷介|けんかい]]、[[自|みずか]]ら[[恃|たの]]むところ[[頗|すこぶ]]る厚く、[[賤吏|せんり]]に甘んずるを[[潔|いさぎよ]]しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、[[故山|こざん]]、[[虢略|かくりゃく]]に[[帰臥|きが]]し、人と[[交|まじわり]]を絶って、ひたすら詩作に[[耽|ふけ]]った。下吏となって長く[[膝|ひざ]]を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に[[遺|のこ]]そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を[[逐|お]]うて苦しくなる。李徴は[[漸|ようや]]く[[焦躁|しょうそう]]に駆られて来た。この[[頃|ころ]]からその[[容貌|ようぼう]]も[[峭刻|しょうこく]]となり、肉落ち骨[[秀|ひい]]で、眼光のみ[[徒|いたず]]らに[[炯々|けいけい]]として、[[曾|かつ]]て進士に[[登第|とうだい]]した頃の[[豊頬|ほうきょう]]の美少年の[[俤|おもかげ]]は、[[何処|どこ]]に求めようもない。数年の後、貧窮に[[堪|た]]えず、妻子の衣食のために[[遂|つい]]に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、[[己|おのれ]]の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に[[遥|はる]]か高位に進み、彼が昔、鈍物として[[歯牙|しが]]にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の[[儁才|しゅんさい]]李徴の自尊心を[[如何|いか]]に[[傷|きずつ]]けたかは、想像に[[難|かた]]くない。彼は[[怏々|おうおう]]として楽しまず、[[狂悖|きょうはい]]の性は[[愈々|いよいよ]]抑え[[難|がた]]くなった。一年の後、公用で旅に出、[[汝水|じょすい]]のほとりに宿った時、遂に発狂した。[[或|ある]]夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、[[闇|やみ]]の中へ[[駈出|かけだ]]した。彼は二度と[[戻|もど]]って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、[[誰|だれ]]もなかった。\n 翌年、[[監察御史|かんさつぎょし]]、[[陳郡|ちんぐん]]の[[袁傪|えんさん]]という者、勅命を奉じて[[嶺南|れいなん]]に[[使|つかい]]し、[[途|みち]]に[[商於|しょうお]]の地に宿った。次の朝[[未|ま]]だ暗い[[中|うち]]に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に[[人喰虎|ひとくいどら]]が出る[[故|ゆえ]]、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが[[宜|よろ]]しいでしょうと。袁傪は、しかし、[[供廻|ともまわ]]りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を[[斥|しりぞ]]けて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の[[猛虎|もうこ]]が[[叢|くさむら]]の中から躍り出た。虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、[[忽|たちま]]ち身を[[飜|ひるがえ]]して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し[[呟|つぶや]]くのが聞えた。その声に袁傪は聞き[[憶|おぼ]]えがあった。[[驚懼|きょうく]]の中にも、彼は[[咄嗟|とっさ]]に思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁傪の性格が、[[峻峭|しゅんしょう]]な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。\n 叢の中からは、[[暫|しばら]]く返辞が無かった。しのび泣きかと思われる[[微|かす]]かな声が時々[[洩|も]]れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。\n 袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、[[懐|なつ]]かしげに[[久闊|きゅうかつ]]を叙した。そして、[[何故|なぜ]]叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと[[故人|とも]]の前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に[[畏怖嫌厭|いふけんえん]]の情を起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に[[遇|あ]]うことを得て、[[愧赧|きたん]]の念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を[[厭|いと]]わず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。\n 後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に[[受容|うけい]]れて、少しも怪もうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を[[停|と]]め、自分は叢の[[傍|かたわら]]に立って、見えざる声と対談した。都の[[噂|うわさ]]、旧友の消息、袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ[[等|ら]]が語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを[[訊|たず]]ねた。草中の声は次のように語った。\n 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと[[眼|め]]を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から[[頻|しき]]りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、[[何時|いつ]]しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を[[攫|つか]]んで走っていた。何か[[身体|からだ]]中に力が[[充|み]]ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や[[肱|ひじ]]のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は[[茫然|ぼうぜん]]とした。そうして[[懼|おそ]]れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には[[判|わか]]らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は[[直|す]]ぐに死を[[想|おも]]うた。しかし、その時、眼の前を一匹の[[兎|うさぎ]]が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に[[塗|まみ]]れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が[[還|かえ]]って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も[[操|あやつ]]れれば、複雑な思考にも堪え得るし、[[経書|けいしょ]]の章句を[[誦|そら]]んずることも出来る。その人間の心で、虎としての[[己|おのれ]]の[[残虐|ざんぎゃく]]な[[行|おこない]]のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、[[憤|いきどお]]ろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、[[己|おれ]]はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し[[経|た]]てば、[[己|おれ]]の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり[[埋|うも]]れて消えて[[了|しま]]うだろう。ちょうど、古い宮殿の[[礎|いしずえ]]が次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても[[故人|とも]]と認めることなく、君を裂き[[喰|くろ]]うて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か[[他|ほか]]のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、[[哀|かな]]しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。\n 袁傪はじめ一行は、息をのんで、[[叢中|そうちゅう]]の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。\n 他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業[[未|いま]]だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百[[篇|ぺん]]、[[固|もと]]より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も[[最早|もはや]]判らなくなっていよう。ところで、その中、今も[[尚|なお]][[記誦|きしょう]]せるものが数十ある。これを我が[[為|ため]]に伝録して[[戴|いただ]]きたいのだ。何も、これに[[仍|よ]]って一人前の詩人[[面|づら]]をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が[[生涯|しょうがい]]それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。\n 袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に[[随|したが]]って書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短[[凡|およ]]そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも[[漠然|ばくぜん]]と次のように感じていた。[[成程|なるほど]]、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、[[何処|どこ]]か(非常に微妙な点に[[於|おい]]て)欠けるところがあるのではないか、と。\n 旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを[[嘲|あざけ]]るか[[如|ごと]]くに言った。\n [[羞|はずか]]しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、[[己|おれ]]は、己の詩集が[[長安|ちょうあん]]風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。[[岩窟|がんくつ]]の中に横たわって見る夢にだよ。[[嗤|わら]]ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(袁傪は昔の青年李徴の[[自嘲癖|じちょうへき]]を思出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の[[懐|おもい]]を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。\n 袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。\n\n 偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃\n 今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高\n 我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪\n 此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷\n\n 時に、残月、光[[冷|ひや]]やかに、白露は地に[[滋|しげ]]く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の[[薄倖|はっこう]]を嘆じた。李徴の声は再び続ける。\n [[何故|なぜ]]こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように[[依|よ]]れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、[[己|おれ]]は努めて人との[[交|まじわり]]を避けた。人々は己を[[倨傲|きょごう]]だ、尊大だといった。実は、それが[[殆|ほとん]]ど[[羞恥心|しゅうちしん]]に近いものであることを、人々は知らなかった。[[勿論|もちろん]]、曾ての[[郷党|きょうとう]]の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは[[云|い]]わない。しかし、それは[[臆病|おくびょう]]な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って[[切磋琢磨|せっさたくま]]に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に[[伍|ご]]することも[[潔|いさぎよ]]しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との[[所為|せい]]である。[[己|おのれ]]の[[珠|たま]]に[[非|あら]]ざることを[[惧|おそ]]れるが[[故|ゆえ]]に、[[敢|あえ]]て刻苦して[[磨|みが]]こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、[[碌々|ろくろく]]として[[瓦|かわら]]に伍することも出来なかった。[[己|おれ]]は次第に世と離れ、人と遠ざかり、[[憤悶|ふんもん]]と[[慙恚|ざんい]]とによって[[益々|ますます]][[己|おのれ]]の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。[[己|おれ]]の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の[[有|も]]っていた[[僅|わず]]かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも[[為|な]]さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を[[弄|ろう]]しながら、事実は、才能の不足を[[暴露|ばくろ]]するかも知れないとの[[卑怯|ひきょう]]な[[危惧|きぐ]]と、刻苦を[[厭|いと]]う怠惰とが己の[[凡|すべ]]てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は[[漸|ようや]]くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を[[灼|や]]かれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は[[日毎|ひごと]]に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は[[堪|たま]]らなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の[[巖|いわ]]に上り、[[空谷|くうこく]]に向って[[吼|ほ]]える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、[[彼処|あそこ]]で月に向って[[咆|ほ]]えた。誰かにこの苦しみが分って[[貰|もら]]えないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、[[唯|ただ]]、[[懼|おそ]]れ、ひれ伏すばかり。山も[[樹|き]]も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、[[哮|たけ]]っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき[[易|やす]]い内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の[[濡|ぬ]]れたのは、夜露のためばかりではない。\n 漸く[[四辺|あたり]]の暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、[[何処|どこ]]からか、[[暁角|ぎょうかく]]が哀しげに響き始めた。\n 最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。[[彼等|かれら]]は[[未|ま]]だ[[虢略|かくりゃく]]にいる。固より、己の運命に就いては知る[[筈|はず]]がない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を[[憐|あわ]]れんで、今後とも[[道塗|どうと]]に[[飢凍|きとう]]することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、[[恩倖|おんこう]]、これに過ぎたるは[[莫|な]]い。\n 言終って、叢中から[[慟哭|どうこく]]の声が聞えた。袁もまた涙を[[泛|うか]]べ、[[欣|よろこ]]んで李徴の意に[[副|そ]]いたい[[旨|むね]]を答えた。李徴の声はしかし[[忽|たちま]]ち又先刻の自嘲的な調子に[[戻|もど]]って、言った。\n 本当は、[[先|ま]]ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、[[己|おのれ]]の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を[[堕|おと]]すのだ。\n そうして、[[附加|つけくわ]]えて言うことに、袁傪が嶺南からの帰途には決してこの[[途|みち]]を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて[[故人|とも]]を認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、[[此方|こちら]]を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、[[以|もっ]]て、再び[[此処|ここ]]を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。\n 袁傪は叢に向って、[[懇|ねんご]]ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、又、[[堪|た]]え得ざるが如き[[悲泣|ひきゅう]]の声が[[洩|も]]れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。\n 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を[[眺|なが]]めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声[[咆哮|ほうこう]]したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。", "rubyCount": 242, "gaijiCount": 22, "dotCount": 7, "sourceSha256": "86901f5550522fb76986ced682eb9e6b32908627b367a000ba52e71639ebc552"}